2013.09.03
幸福の感度
今、会社の教育理念のキャッチフレーズを考えている。創業して20年近くなるのに「今になってそれ作ってんの?」と驚かれそうだが、私自身がそんな大それたものを掲げる必要性を感じていなかったからだ。しかし、会社が成長していく中でパンフレットなどあらゆる印刷物にこれらの文言を載せる必要性に遅ればせながら迫られている。
「創業者である私が教育理念ってなんですか?」と聞かれて即答できない。抽象的な曖昧な表現が苦手な私。でも確かにある。それは「自己肯定感を幼い頃に確立してしまう」「自尊感情を小さいうちに作ってしまう」ということだ。それは何を隠そう私自身にこれらが全く育っていないため、しなくてもよい苦労をしているからだ。人前で講演したりサインを沢山頼まれたりしているこんな幸せそうな私が不幸を背負っているとは誰が想像できようか!
社会的にも成功したかに見える私。自分で起業して好きな仕事が出来て、それで食べていけて・・・夫に食べさせてもらわなくては生きていけないため、夫の退職金を手にして離婚を決行するその日までずっと我慢して、少しでも老後の資金を貯めるため、やりたくもないパートの仕事をして・・・という友達からは羨ましがられている。
しかし!そんな恵まれた状況なのに私には幸福感がないのだ。50を過ぎても自己肯定感が全くない。それは幼い頃から「こうであらねばならぬ」「優秀な他の子どもと比較されて育った」ことが原因になっている。このスカスカの心を埋めようとずっともがいている私・・・もてたいと思うのも、必死で本を書いているのもその一つ。部数出るということが私が認められた証拠であるからだ。
「コップに水が半分入っている」という一つの事実がある。これを「もう半分しか入っていない」と捉える人と「まだ半分もある」と捉える2タイプに人間は分かれる。事実は一つなのに・・私は前者。マイナス思考になってしまっている私の脳は物ごとを全て悪く捉える傾向にある。貧しくても幸せを感じている人がいる一方、お金があっても不幸を感じている人もいる、幸せとはその起こっている事象ではなく、それをどう自分が捉えるかにかかっている。
だから、会社を創業して縁あってうちの生徒になってくれた7000名の子ども達には自己肯定感をしっかり小学校3年生までつけてやりたいと思っている。それが教育理念だ。これを具現化するために教室では幾つかの決めごとがある。
●汚い文字を書いても決してバツをつけてはならない。綺麗に書けている文字に○をする。
●「勉強が出来ない」「授業中隣の子にちょっかいを出す」など何一つ褒める材料がない子どもでも褒めまくる。以前ブログ“褒める材料のない子ども”に詳しく書いた。→tateishi-mitsuko.com/blog/%e6%ad%a3%e7%9b%b4%e3%81%aa%e3%81%a4%e3%81%b6%e3%82%84%e3%81%8d/20130524010012.html
●親も自己肯定感が育っていない人が多いので「お母さん、本当に頑張っていますね」と褒めたり「子どもを叩きたくなるんです」と言われても「そうですよね。そう思っちゃいますよね。ぶっとばしたくなりますよね」と言葉をそのまんま受けとめ、決して否定しない。
“五体不満足”の著者の乙武洋匡さんが私の理想。彼は自己肯定感に溢れている人。この表紙の写真の表情を見て彼に手足がないとは思えない。自信と幸福感にみなぎっている表情だ。
著書の最初にこう書いてある。(抜粋)
「昭和51年4月6日。満開の桜に、やわらかな陽射し。やさしい1日だった。オギャー、オギャー」火が付いたかのような泣き声とともに、ひとりの赤ん坊が生まれた。元気な男の子だ。平凡な夫婦の、平凡な出産。ただひとつ、その男の子に手と足がないということ以外は。先天性四肢切断。分かりやすく言えば、あなたには生まれつき手と足がありませんという障害だ・・・・本来ならば、出産後に感動の「母子ご対面」となる。しかし、出産直後の母親に知らせるのはショックが大きすぎるという配慮から、「黄疸(皮膚が異常に黄色くなってしまう症状)が激しい」という理由で、母とボクはーヵ月間も会うことが許されなかった。それにしても、母はなんとのんびりした人なのだろう。黄疸が激しいという理由だけで、自分の子どもにーヵ月間も会えないなどという話があるだろうか。しかも、まだ見ぬ我が子だ。「あら、そうなの」となんり齪びも持たずにいた母は、ある意味「超人」だと思う。
対面の日が来た。病院に向かう途中、息子に会えなかったのは黄疸が理由ではないことが告げられた。やはり、母は動揺を隠せない。結局、手も足もないということまでは話すことができず、身体に少し異常があるということだけに留められた。あとは、実際に子どもに会って、事態を把握してもらおうというわけだ。
病院でも、それなりの準備がされていた。血の気が引いて、その場で卒倒してしまうかもしれないと、空きベッドがひとつ用意されていた。父や病院、そして母の緊張は高まっていく。「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。
「かわいい」─母の口をついて出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。泣き出し、取り乱してしまうかもしれない。気を失い、倒れ込んでしまうかもしれない。そういった心配は、すべて杷憂に終わった。
自分のお腹を痛めて産んだ子どもに、1ヵ月間も会えなかったのだ。手足がないことへの驚きよりも、やっと我が子に会うことができた喜びが上回ったのだろう。
この「母子初対面」の成功は、傍から見る以上に意味のあるものだったと思う。人と出会った時の第一印象というのは、なかなか消えないものだ。後になっても、その印象を引きずってしまうことも少なくない。
まして、それが「親と子の」初対面となれば、その重要性は計り知れないだろう。母が、ボクに対して初めて抱いた感情は、「驚き」「悲しみ」ではなく、「喜び」だった。生後1ヵ月、ようやくボクは「誕生」した。
最初から自己肯定感が育つように生まれた瞬間から育てられていたのだ。
後書きにはこうも書いてある。「これから生まれてくる子どもに対して、親が馳せる想いはさまざまだろうが、最低限の条件として、上のような言葉をよく耳にする。”五体満足でさえ生まれてくれれば・・・”だが、ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか、五体のうち四体までがない。そう考えると、ボクは最低条件すら満たすことのできなかった、親不孝な息子ということになる。だが、その見方も正しくはないようだ。両親は、ボクが障害者として生まれたことで、嘆き悲しむようなこともなかったし、どんな子を育てるにしても苦労はつきものと、意にも介さない様子だった。何より、ボク自身が毎日の生活を楽しんでいる。多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、何ひとつ不満はない。」
茂木健一郎の“幸福になる脳の使い方”という本にも「乙武さんに以前お会いしていた時のことです。これほどハッピーな人というのもいないだろうと思いました。傍から見ていてあんなに幸せを謳歌している人はいません。手足がないということは普通に考えると幸せになるのはなかなか難しそうだと考えてしまいますが、いつ会っても彼はハッピーだし周囲を幸福感で包める人なんです」と書いている。乙武さん自身も「障害は不自由だと思うが不幸だとは思わない」と明言している。
前回のテストは60点だった。今度は80点取ってきた、しかし平均点は90点、たいていの親は平均点を下回っていることに目が行き「何で平均点いかなかったの。今度はもっと頑張りなさい」と嘆き更に要求する。私はそんな保護者の言動を見ていて「平均点を何でここで持ち出すんだろう?前回のテストより20点も上がったことを喜んでやればいいのに。可哀想に・・・」と思う。保護者から「うちの子、集中力がないんです」と相談を受けることがある。「色々なことに興味の対象が移行して素晴らしいじゃあないか!」と私は思う。
物差しはその子自身ではなく、いつも他の子どもの物差し。優秀な他の子どもと比較したら元々出来が悪いのだから永遠にその差は縮まらない。IQには幅があるように障害がなくても遺伝的に知能の低い人と高い人がいるのだ。誰かと比較して育てることは、永遠に終わらないマラソンレースをさせているのと同じ。どこかで疲弊して不幸感満載の心に育ってしまう。そして、こんな風に育てられると私のような自己肯定感のない人間が一人また一人と生まれる。
だから「教育理念はなんですか?」と聞かれたたら「自己肯定感・自尊感情を小さいうちに確立すること」つまり「幸福の感度を上げる」ことなのだ。「(物理的に)幸せにする」のではなく、どんな状況になっても「幸せである」と感じる心に育てるたい。幸福の感度の高い温度計を心の中に持たせたい。そういった文言を教育理念として考えたいと思っている。今、考え中!
カテゴリー:正直なつぶやき
実は私も以前、勤めていた会社の上司から散々、比べられ、
そんな中で生きてきました!
私の場合は「なんのこれしき!」という気持ちを持っていましたが、やはり、心の根底には「比べられることの悔しさ」と〝自分はダメなヤツなんだ!〟という「自己否定」もありましたヨ!!
とはいえ、己の中の〝自虐主義〟を打破せねば先に進まないので、お互い、努力を重ねていきましょう!
(^_^)v
大信田さん大人になってもそうですよね
おはようございます。私のテンションの低さ、自己否定感、後ろ向きな考え・・・どうすりゃいいの・・ですが、解かっていれば大丈夫とお聞きしたことがあります。いろいろ体験してきたことで、未来のお子さんの応援ができることって素晴らしいと思います。
BEAR
さん有難うございます~立石
(どんな状況になっても「幸せである」と感じる心に育てるたい)
自分の子育てにおいて、頭でわかっていても一番忘れがちなことかもしれません。
足りないことを責めるより、その子供のプラスをみつけてあげ、幸福感を感じさせてあげること
つまりは、自分が幸福を感じることにつながるわけですよね。
最近ちょっと重い悩むことがありまして、励まされました。ありがとうございました。
さやか先生、私のブログがお役に立てて良かったです。エンピツらんどの先生をやっていると自分の子育ても客観的に出来たりして良いこともありますよ!
何度も何度も読み返してしまいました。
素敵な教育理念が出来上がると思います。
岩切先生~ありがとうございます!立石美津子