2013.10.25
金太郎飴
金太郎飴、どこを切っても同じ顔
今から30年近くも前の話、私はまだ24歳だった。(上の写真は51歳の今)当時、東京の恵比寿に石井式国語教育研究会という会社があり代表取締役は今は亡き、知る人ぞ知る漢字教育の生みの親、石井勲先生だった。(写真)石井先生からの直々の講義を受け、全集、書籍は全て読み、その教育内容に深い感銘を受けた。そして、私は幸運にも採用された。そして石井式漢字教育の幼児教室をやっている恵比寿のクラスを月曜日~土曜日見学した。
結論をいうと全くもって同じ教育理念、同じ会社、同じ場所にあるのに担当の先生により違う授業内容だった。月曜日担当の先生と火曜日担当の先生は同じ教材を使っていても授業の雰囲気、教育成果が全く違うことに愕然とした。教育内容に保護者や生徒が惹かれているというより先生についている。だから先生が退職すれば一緒にごそっと生徒も辞めて行く、そんな状態だった。講師の年齢も30歳~50歳まで様々、躾の仕方も甘い人、厳しい人と色々。月曜日のクラスでは立ち歩いても叱られず、火曜日のクラスはちょっとよそ見をしただけで叱られる。
そこへひょっこり若い私が現れた。当時の教室全体を統括していた上司から「君をここに呼んだのは統一された指導マニュアルを作ってほしいからだ。金太郎飴のようにどこを切っても内容を作ってほしい。君はこれから敵を作る。全員辞めてもいいから誰がやっても同じ授業が出来るものを完成させてほしい」と言われた。これが私に与えられたミッションだった。私の給料はそれを目的に支払われていた。先生によって指導が違うことにより生徒が定着せず会社として成り立っていかないという厳しい現実があった。
上司の言葉に変に勇気づけられてしまった若い私は授業見学をしながら指導力のない先生に対して「私があなただったら、授業料を払いたいと思わない!」なんて単刀直入に”言ってはならない本当のこと”をバンバン口に出して言った。今よりももっと私はきつい物言いだった。結果は惨憺たるもの。陰湿ないじめを受け持病のアトピー性皮膚炎が悪化してしまい2ヶ月も東京医科大学病院に入院するはめになってしまった。退院して戻ってきた時には古い先生達の姿はそこにはいなかった。そして新しい講師を雇い、私が作った指導マニュアルに沿って授業が展開され生徒は一気に10倍に増えた。(人生年表に職歴は書いてあります→tateishi-mitsuko.com/profile/index.html)
あれから30年の長い月日が経過した。私は31歳で長くいた石井先生の元を離れ、会社を起業した。同じ歴史を繰り返したくはなかったので最初からきめ細かな指導マニュアルを作った。コース別の指導マニュアルがこれ。年間44回授業があるが“時限マニュアル”と言って44回分の授業の台本まである。
だから、エンピツらんどは指導マニュアルを元にスキルの高い先生が授業展開することにより統一された質の高い授業が行われている。お蔭様で生徒も7000人を超した。でも一方その弊害もある。「指導マニュアルに書いてあることしかしてはいけない、工夫はしてはいけない」そんな風に真面目に考える人も出てきてしまうのだ。授業の終わりの挨拶で「エンピツらんど楽しかった人」という言葉を新人でデビューする前に教育実習で練習すると年間44回ずっとそれしか言えなくなってしまう人がたまにいる。
確かに細かい指導マニュアルがあった方が素人で雇われた人はやりやすい。でも、そこにがんじがらめになってしまう人も一定の割合で出てきてしまう。 子育て本を読めば読むほど完璧な子育てを目指そうと疲労困憊してしまうのと似ている。そして、指導マニュアルは一歩間違えば過保護・過干渉の親のように自立の芽を摘んでしまう。先生を志す人の自由な発想、伸びる芽を潰してしまう。だからマニュアルのよさを生かせるように基本に基を教え、あとは人を信頼して成長を見守ることがとても大事だ。今、発想転換の時期に来ている創業19年目の当社である。きっといい方向に行くと信じている。
カテゴリー:正直なつぶやき
「マニュアル」は仕事をするにあたり、必要なものではありますが、「万能ではない」という事ですネ!
どんな会社でも環境の変化や状況により影響されていくので、その度に〝進化〟させていく必要がありますナ!!
(`へ´)/