2013.11.19
裏の裏をかく癖
さて、どちらが善人だと思いますか?私は下が善人だと思います。
今から30年ほど前、塾講師としてまだ22歳だった私は先輩に苛められていた。大人同士だからあからさまな苛めではない。私が会社の封筒に書いた住所の書き方を見て「何でこんな字で書いて平気で投函できるのかしら・・・」「全体のスペースとのバランスが悪い」などなど。そして陰で「親の躾が出来ていないのね。お里が悪いのね、それでよく堂々と教師面して文字の先生やっていられるわよね」といった感じ。スタッフの結婚式の時、私以外の人、皆でお金を出し合ってお祝いの品を贈り私だけご祝儀を包んで行って初めて外されていたことを知った・・・と言った系の意地悪
その人の名前は小畠と畑山。(ここでは仮名で出してあるが実際の話)
ずっと心の中では”呼び捨て”していたのでここでも、まんま書く。この二人の女性スタッフは私よりずっと年上の中年のお方。当時40歳ちょいだったと思う。小畠はいつも口角が上がっている笑顔風のおばざん、一方、畑山は口をへの字にして人の荒探しばかりしている形相がいかにも意地婆さん風
最初、私は小畠がいい人だと錯覚して何でも打ち明けて相談していた。苛められていることさえも愚痴ったりしていた。でもその話が全て畑山に筒抜けて、畑山から意地悪をされた。後で知ったが二人が中心となって若くして入社してきた私の棚卸を毎日していたらしい。この時、顔からして意地悪婆さん系の畑山の方が善人に見えた。心は悪魔なのにニコニコ私に接していた小畠が信じられなかった。「不正はしません」と公言しながら裏金を作る人と「今から盗みます」と言って泥棒する人とどちらが陰険か・・・と曾野綾子の本にも書いてあった。どっちも悪いが少なくとも「盗みます」と言って盗む人の方が陰険ではないと私は思う。
それから数年後。私はある気難しい園長が経営する幼稚園の課外教室を社員として担当していた。授業よりも優先させなくてはならない仕事が出てきてしまった。
その時、私は園長の大のお気に入りで指導力も最高だった。でも誰かが変わって授業をする(=代講)を立てなくてはならい事態になった。
スタッフ会議で「私はどうしても出張にいかなくてはならない。だから代講の先生を準備してほしい」と発言した。するとA社員(=講師の仕事も可能な人)が「B先生がいいかしら、それともC先生がいいかしら」と言った。B講師もC講師も都合がつかなかった。すると社長の鶴の一声!「だったらAさん、あなたがやりなさい」と命じた。
しかし驚いたことにAは代講探しをしていたその舌の根も乾かないうちに「でもあの園長は立石先生が授業をしないと許さないから代講は立てない方がいい。どこかで立石先生自身が自分で振替授業をすればいい」と言った。「授業が下手だから代講したくない」と素直に言えばいいのに、園長がどうたらこうたらと出来ない理由を他に求めてあれこれ言う。私は「さっき、あなたは代講講師を探す発言をしていたよね。でも自分にお鉢が回ってきたら180度、違うこと言うんだ」と痛いところを突いた発言をした。彼女は涙目になっていた。その後、Aと私との関係が最悪になったことは言うまでもない。
さて、中学の頃の話。当時、寄宿舎生活をしていた私達生徒は学年内での責任者を選ぶことになった。勉強時間、遊び時間も削られるそんな係りはもちろん誰もやりたくない。Sさんが指名された。するとSは「私は本当はやりたいんだけれども能力がないから残念だけど立候補できないわ。美津子(=立石)は責任感もあるし人望も厚いから私は美津子を推薦するわ~」と言い頑として受けようとしない。「素直に『やりたくない!』と言えばいいのに!」と心の中で思った。結果、「やりたくないけれど誰もやらないんだったら今年は私がやるわ」と私が引き受けるはめになった。
私は昔から図星なことを言い、人の傷口に塩を塗るような発言をしていた。だからよく喧嘩もした。年をとって丸くなるお爺さんと益々悪いところが際立って頑固親父になる人がいるが80歳近くなる私の父は後者。せっかちな性格、頑固が益々バージョンアップしてある意味手がつけられない感じ。子どもは親のDNAを引き継いでいるから私も年をとって丸くなるどころか悪い部分が強調されてきている。会議前に席の譲り合いをしている女子を見て私は「気の利く女性」とは思えず「自分がいい人と思われたいのに必死な人」という誠に捻くれた見方をし仏頂面で「時間厳守ではじめろよ!」と心の中で叫び時には「優先事項は何か考えて」と嫌味な発言をしたりする。
”竹を割ったような性格”“自分の心に正直”というと聞こえはよいが、それをあからさまに人にぶつけてしまうと言われた方はたまったもんじゃあない。まるで相手の心のひだを読めないアスペルガーのようだ。前からそんな気がしていたが私はアスペかもしれない。
そして、この性格が災いしてトラブルが最近多発している。「君の残りの人生これではいけない」と助言してくれる人もいて今、思案中・・・人生の折り返し地点をとうに過ぎた私が変われるものだろうか・・・
善人に見える人を避け、毛嫌いしている捻くれた私・・・そんな時、たまたま曾野綾子の“善人はなぜまわりを不幸にするのか(祥伝社)”を読んだ.
少し抜粋しよう。
『私は人の善意や厚意を元にした世間の美談を素直に喜べない性格になっていた。そしてそういう自分の性格に反射的に嫌悪感を抱いてもいた。心根のいい話にすぐに感心できないのだろう。いや、感心しないことはないのだが、反射的にそのできごとに含まれる裏の事情や、口には出されなかった部分を考えてしまうと、どうじても一途に話に酔うことができないのである。それが子どもの時に家庭内で受けた心の傷の後遺症だろうと自覚しているのである』
※曾野綾子先生がタイトルテーマに沿って今までの本の中から選んだ抜粋集なので、ちゃんと読みたい人はそれぞれの曾野綾子先生 の本を読んだ方がよい。
曾野綾子先生と自分を同じ位置で語るのは恐れ多いが何だか曾野綾子先生は私と同じもの見方をしている。私にすべてぴったり。私は善人のように見える人、話をする人を反射的に嫌っているところがある。私は自分のブログがどうしても捻くれてしまうことにかなり自分自身、最近、嫌悪感を感じで自分が嫌になってる。でも、そこで偽りの善人を演じる文章を書くことは良いのだろうか。無理を自分に強いることが自分の精神にどんな影響をもらたすのだろうか・・・
語尾、最後まで読んだ読後感などは読む人の気持ちを考えて工夫はしなくてはならないと思っている。特に私の第一作目の本は非常に読後感が悪く親を追い詰めているように自分で読んでも思うので二作目以降は「読後感をよく」ということをかなり意識して書いた。
ビジネスマナーで「いつも笑顔で」と講演しているが、どうも最近、それは自分の心に素直でないことのような気がしてきた。こういう理屈もかなりひねくれていると思う。今の心の状態でマナー講師を引き受けることはよくないと思っている。
何だか読後感の悪いブログに今回もなってしまいました。ごめんなさい・・・
カテゴリー:正直なつぶやき
うーんっ!(-_-;)
善人を装って実は裏で誰かとつながっていると思うだけで疑心暗鬼になりますよネェ!!
それと自分の非や実力不足を隠すのもみっともない気がしマス!
自分を把握し、人を踏み台にしない心構えを持たなくてならないと今日のブログで感じました。